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金沢美食ロード

■ 素材にこだわり、素材の良さを最大限に引き出す・銭屋の料亭物語


<第二回 銭屋>

 

時を越える心

アワビの品質を確認する二代目・高木 慎一朗氏

日本海沖・孤島のアワビ
輪島沖合北方約60kmの海上に浮かぶ孤島・舳倉島は、日本三大海女集落(にほんさんだいあましゅうらく)として知られてます。
7月1日午前9時に待望のアワビ漁は解禁され、能登にいる200名ほどの海女がいっせいにウェットスーツと水中眼鏡だけで海に潜り、金沢の銭屋のためだけに厳選されたアワビを採ってきてくれます。
これが9月30日まで続けられ、この間一年分のアワビが銭屋に届けられます。

全国に鮑ステーキといえば金沢の銭屋と言われるくらい、つと有名になった銭屋の厨房は、その日から朝早く舳倉島から届くあわびで埋まっていきます。

あわびは「海の小判」と呼ばれ奈良時代から朝廷に献上される税金のかわりとして扱われるほど貴重な食材でした。
現代でも、海産物の王様として高級食材の頂点に君臨しています。
雄大な日本海の自然の中で育まれた「天然あわび」。
その本物の食材の美味しさを追及すると供に、美味しい食材を探求しお客様に提供し続けてるのが銭屋なのです。

第2回は、先代から常に素材そのもものの味にこだわる「銭屋」を取上げました。


海女が1つずつ潜って採る(北国新聞より)

舳倉島の上空からの航空写真(自衛隊より)

◆あわびステーキ
舳倉島は、別名海女の島ともいい、日本でも有数のおいしいアワビが豊富に採れます。
そのアワビは水貝にして刺身として食べられていたのですが、少しお年を召した方には、少し硬いのが玉に瑕でした。
コリコリとした水貝の味は忘れられない、でももう食べられないというお客様の声に応えて銭屋の先代・高木 信 氏が30年前に考案したのがこの「鮑ステーキ」でした。
いまでこそ「あわびステーキ」は鉄板焼の店でも和食の店でもポピュラーな物となっていますが、先代が思いついた時は、日本料理の店ではほとんど使われていなく、フランス料理でも当時、志摩観光ホテルの高橋調理長が唯一取り入れていた献立でした。
そこで思いついたのが日本料理伝統の技術の「アワビの柔らか煮」にヒントを得て、銭屋オリジナルの和風ステーキにする事でした。


舳倉島から届くアワビを

調理場全員で下処理が始められる。

二代目の右腕。
調理長である実弟の二郎氏

ダイナミックに貝殻から身が剥がされます

仕上げは手で丁寧に、やさしく

山と積まれるアワビ

ちょうどその頃、私は金沢に帰ってきていて、親父(銭屋の先代)が自分独自の味を作り上げようと試行錯誤の結果、「高木 信・銭屋の世界」が日本中に認められ広がっていく、その有様を目のあたりにいたしました。
このアワビステーキも旧知の間柄だった志摩観光ホテルの高橋さんと忌憚なく語り合い、志摩のアワビと輪島のアワビとでは同じ調理法でやっても美味しくならない、志摩には志摩の輪島には輪島の調理法があると結論に達したようです。

いかにして口の中に入れて、鼻に抜けるような貝の香りと柔らかな口当たりにアワビを仕上げ、かつアワビ本来の力強い野生の味を楽しめるように出来るかが命題でした。
亡くなられてはや20年近くが過ぎようとしていますが、保守的な料理の世界で常に新しい食材を取りいれ自分の世界を作り上げ、世間の人に認知させるのは、この天才料理人をしても並大抵ではありませんでした。


アワビのカラだけが残ります

鋭い目で現場を仕切る当代、慎一朗氏

亡くなられた創業者の先代・高木 信 氏は、強烈なキャラクターの人でした。

料理人のステージであるカウンター。
ここから銭屋のストーリーが始まったのです。

先代から受け継がれたDNA
16歳から独立する29歳まで金沢の料理屋で修行した、生粋の金沢で育った料理人でありながら、独立した先代の作る料理はそれまでの料理そのものをドーン、ドーンと出す加賀料理とは違い、どこかスマートで洒落ていました。

コレが舳倉島のアワビステーキだョ。

いまでこそ金沢も京料理のエッセンスが入り、金沢と京都の良い所が上手い具合にとけあい、金沢というひとつの世界を作り出しています。けれど当時の加賀料理は、食材のあまりの質の良さに胡坐をかいていたと批判されても仕方がないと思います。
ですから銭屋の先代の料理は、「ペリーの黒船来航」のようなセンセーショナルな話題をつねに提供していました。
30年たって当時作られた料理の写真を見てみれば、いまどんな料理屋さんも提供している食材や料理法で普通の料理なのです。
逆に言えば、30年たって振り返っても普遍的な料理だったのですネ。




貝殻から身を剥がされたアワビは水洗いの後、霜降りされ、さらにタワシで汚れをとり



鍋に入れられ、コトコトと6時間ほど煮込まれることにより柔らかくなり味を調えられ、さらに2時間煮込まれ一晩寝かされる事により完成いたします。

古い金沢から飛び出たした感性
30年前に先代の考案された、このアワビステーキもどちらかというと素材を大事にする加賀料理の延長上にありながら、その枠をを飛び出し氏独自の世界を作り上げています。
出来上がった物を模倣するのは簡単に出来ます。
でもそれを創造し、保守的な料理の世界で確固たるポジショニングを確立するにはどれだけの工夫と努力が必要だったでしょう。


私の亡くなった親父と親友だったおかげで、調理場へ訪ねていくと「おっ、松本元気にやっているか」「コーヒー飲みに行くか」「昼飯食っていけ」などと、大変かわいがっていただきました。
もっともその昼飯は調理場のまかないのため、その分、調理場の若い衆のオカズが少なくなって不評を買っていましたが。
(o^-^o) ウフッ


外から銭屋をみていて、一番の魅力だと思ったのは、品質的にすぐれたアワビや生の夏マグロにみられるような地元産の物を多く使うのはもちろんの事、良いというものがあれば全国から幅広く取り寄せていたこと。
(私もご相伴させていただきました。(^ー^)ノ)


いち早く、フォアグラ、ピータン、キングサーモンなど洋食や中華の材料、調味料を取りいれていたことです。
ある時、豆腐の上にアボガドを細かく叩きラー油と下ろし玉ねぎの絞り汁、醤油で味を調えてありました。
白い豆腐と鞍掛けされたアボガドの青色のコントラストと古染付けの器が印象に残っています。
新しい素材、調理法に取り組むといった姿勢が魅力の1つでした。


かと思えば、お客様によっては、食事にコノワタをかけたご飯や、天日干しした古大根の糠漬を、少し酸味を帯びさせてお茶漬けとしてお出ししていました。

目先の変わった料理ではなく、素材にこだわりその魅力を十分に引き出す事によって、お客様に次には何が出てくるだろうかとワクワクするような期待感や新しい発見をしてもらえるような料理に仕上げるのが秘密だと語っていた事を思い出します。

高木 信 氏とお客様への細やかな気配りで支えた女将の笑子さんの一代で、金沢の一流料亭となった銭屋は、後継者の育成にも力を尽くし、彼のDNAを継承した調理人は、金沢は勿論、全国で活躍しています。

また私が金沢に帰って来たときは、今の当代の慎一朗氏は中学生でしたが、親父は長男の慎一朗、次男の二郎氏にも「食は三代」といわれている様に幼少より、日本中の美味しい物を食べに連れ歩いていました。

さらにこれからの男は世界を見なければいけないと、高校の卒業をまたずして一年間アメリカに留学をさせるほどの人でした。留学といえばカッコいいのですが、単身、親の助けもない見も知らずの土地に放り投げたたのです。調理場の若い衆にも子供にも優しさと厳しさの両面で接していました。
生まれた時から、料理場の裏表の全てを知っている慎一朗氏、二郎氏がいま先代のDNAを受け継ぎ銭屋の全てを仕切っているのです。


アワビを戻している間も調理場は戦場のような忙しさです。

だいたい戻ってきましたネ。
これで6時間くらいです

戻し方も味の付け方も先代の味を受け継ぎながら新しい試みが。

作り上げた、銭屋二代目の世界
大学を卒業した慎一朗氏は、京都・吉兆で料理の世界に飛び込みました。

厳しい日本一の料亭の吉兆で、上下関係のある、ある意味理不尽な世界で勤まるかどうか危惧していたのですが、京都へ行く前に彼にそれとなく話しをした所、彼の意気込み決意がビシビシと伝わってきて、彼の顔と亡くなった先代の顔が重なり涙が出そうになりました。

あれから10有余年が過ぎ、先代が作り上げた銭屋の世界に京都で教わった吉兆の世界が融和し、また新たに関西の料理修行から帰って来た二郎氏も料理長として加わり、いま若い彼ら独自の感性が混ざり合い、混沌から創造へと二代目・銭屋の世界が広がりつつあります。
これから彼らが作り上げる世界がどこまで行くのか、金沢の美味しい店だけで終わるのか、日本で終わるのか、はたまた世界まで行くのか楽しみな逸材であります。

慎一朗さん、「世界の名物・日本料理」これが吉兆の創業者・湯木 貞一の言葉でしたよ d(^-^)ネ!


ステーキを焼く、当代・高木 慎一朗氏
その見つめる目の先は、お客様の笑顔か

高木慎一朗氏にインタビュー
のぶチャン
「慎一朗さん知っていますか、ここ銭屋の調理場は、私の店の原点でもあるんですョ。」


慎一朗 氏

「珍味屋の のぶさん の原点ですか?」

のぶチャン
「そう。30年前のここの調理場はすごかったョ〜。なにせここにくれば何でもあった。知っての通り近江町のうちの店は珍味屋だから日本中の商品があったけど、ここには金沢の中央市場はもちろんの事、築地の市場にもないものがいっぱいあった。」

慎一朗 氏
「ああ、羽田沖のアナゴや鳴門の鯛の事ですか?」

のぶチャン
「うん、それもある。今でこそ当たり前だけどアナゴなんて天麩羅と煮物で羽田沖と瀬戸内を使い分けていたでしょう。
鯛なんて”のっこみ”の一週間だけは加賀の橋立港産と決めていたりして、美味しい時期によって買う産地を変えていたでしょう。
三十年以上前の話ですけど、慎一朗さんは、いまいくつ?」

慎一朗 氏
「34ですけど。」

のぶチャン
「まだあなたが鼻をたらしていた5才の時に、そんな事をしていたのよ d(^-^)ネ!
考えられないョ。」

慎一朗 氏
「小さい時、けっこう親父に連れられて日本中食べに行きましたョ。
美味しいものを知れ!ってネ。
私は旅行が出来て旨いものが食べれて嬉しかったけど。
結局あれはリサーチだった訳ですネ。
昔は店と自宅が一緒だったから旅行から帰ってきてしばらくすると銭屋の調理場に旅行で食べてきた美味が並んでいるんですョ。」

のぶチャン
「おみやげにかってきたわけでなく?」

慎一朗 氏
「そう、今でいう産直ですか。
実際自分で見て食べてきて買うわけですから、美味しくないわけないですワネ。
冬だったら福岡の河豚の白子だったり、四国や北海道の果実だったり。
そういえば30年前ラ・フランスを調理場で初めて食べた記憶があるワ。
ああフォアグラも初めて食べたのはここでだった。
お金貰いますョ。(T▽T)アハハ!」

のぶチャン
「いまでこそラ・フランスなんて珍しくもないけど当時はあまりの美味さに感動したナ〜。
むかしサ〜、苺のピンポン玉より大きいのを食べたけどいまでもあれ仕入れているの?」

下に続く↓↓↓

秋の逸品料理

鴨のロース煮
秋の吹き寄せ盛

慎一朗 氏
「いまは違う農家から専属にもっと大きいのを作ってもらっています。」

のぶチャン
「へえ、一段の進化してるんだ。
そういえば京都・吉兆は醤油や酢まで特注だったね。
最近行った時は無農薬の京野菜の料理を一品だしていたしネ。
他とは違う美味しい物を出そうとみんな苦労してるよネ。
それはそうと、最近サ、俺が行くと調理場の若い衆は、さっと冷蔵庫に何かを隠すのネ。
あれは何?」

慎一朗 氏
「あっ、ばれましたか。」

のぶチャン
「あんまり隠すとネタばらすョ。」

慎一朗 氏
「のぶさん、怖い事いわないで下さいョ。
あれは能登の珠洲の松茸ですヨ。香りが飛ぶからすぐ隠せって指示だしてあるんです。」

ぶチャン
「隠せって指示!誰から隠すわけ?」

慎一朗 氏
「・・・・・・・・」

のぶチャン
「そういえば、刺身に使う塩も別注だったョネ。
昔も珠洲から松茸来てたよネ。あれと同じ?」

慎一朗 氏
「・・・・・・(◎_◎;)いま、別に専属に山の手入れをしてもらって、銭屋バージョンの松茸を取って来てもらっているんです。
ところで、なぜうちの調理場がのぶさんの原点なわけですか。」

のぶチャン
「原点というか、うちの目標なの。
『他との差別化』
『お客さんに喜んでもらうには手を惜しまない』
『なんでもする』
『強い意志』
そんなことがネ。それを教えてくれたのがあなたの親父なわけ。」

慎一朗 氏
「じゃ、特許か授業料もらわなくちゃ。」

のぶチャン
「(◎_◎;) ドキッ!!
まあ、使う食材は、日本一の物をたくさん使っていますネ。
たとえば浜中湖の「服部のスッポン」とか。」

慎一朗 氏

「うまいこと誤魔化しますネ。」

のぶチャン
「いやいや、服部のスッポンは日本一です。
早い所は半年で大きくする所を3年もかけて天然と同じように冬眠までさせて大きくするんだから。
どっちの料理ショーにもでてたよ。
京都の大市と同じスッポンですョ。
石川県では、うちだけしかないよ。」

慎一朗 氏
「だから使っているでしょう。
売る人は問題があっても、商品は一流なんだから。
(o^-^o) ウフッ」

のぶチャン
「どういう意味。(^ー^)ノじゃツクッテネ。
すっぽん料理。」

慎一朗 氏
「(゜゜;)エエッ」

てな訳で、作っていただいたのが、この料理

丸なべ

浜名湖の近くで天然よりも極上のスッポンを育てる服部中村養鼈場

スッポンの身を入れダシをとった満月豆腐

素材の持ち味をを生かして、明日ははどんな料理が出来上がるのか!
乞う!ご期待下さい。

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